死ぬよりもつらいことがあるのだとしたら


畠山鈴香被告に無期懲役の判決が出た。
求刑は死刑だった。
妥当だという人も、そうでないという人もいる。


報道によれば、本人は死刑を望んでいたという*1
これ以上生きているのがつらいのだという。


刑というのは何のためにあるのだろう。


懲らしめるためだとすれば、本人が嫌がることをしなくてはいけない。
社会的な犯罪抑止力を期待するのだとすれば、世間の人々が嫌がることをしなくてはいけない。
今回の場合はこれが一致していない。


いうまでもなく、今回の事件は残酷で悲惨である。被害者と遺族の悲しみは深く、決して消えることはない。
もしも彼女に責任を負う力があるのなら、彼ら彼女らが苦しんだ以上のつらい刑に服さなければならないだろう。
だが、彼女にとって死ぬよりもつらいことがあるのだとすれば、そういう選択肢もありえることになる。
今回の判決は、犯行の計画性を認めず、死刑にするのはためらいがあるとした。つまり、死刑よりも重くない刑として、死刑よりつらくない刑として無期懲役が選択された。
彼女が本心でどう思っているか推し量ることはできないが、仮に死刑を望んでいたとすると、「裁判官としては軽くしたつもりでも、被告にとっては重い」場合というのはあるのかもしれない。




今回僕が思ったのは、裁判のテクニックとして、「死刑にしてくれ」って言っちゃう方法もあるんだなということだった(不謹慎ではあるけれど)。
自分がそういう立場になることはないはずだが、もしも極刑が免れない凶悪犯罪を起こした場合(あるいは弁護士に転身してそういう被告を弁護した場合)、あえて死刑を望むことで死刑を回避できることもあるんじゃないかと思ったのだ。
僕が考えつくぐらいだから、裁判の世界では当たり前のことなのかもしれないが。



それと、死刑のあり方とかを考えることもひとつ重要なことだけど、並行して、絵空事かもしれないけど、そもそも犯罪の起こらない社会づくりというのも構想しなくてはならないのかもしれない。
現在の死刑という制度に犯罪抑止効果を期待しているのかもしれないけど、とんでもない罪を犯してしまう人というのはそんなことをまともに考えられているのか疑問なわけだし。
そのためには、「まともに生きるのがバカらしくなる社会」ではなく、「みんながまともに生きたくなるような社会」を形成しなくては。




ちょっと話がずれますが、佐藤雅彦という人が『経済ってそういうことだったのか会議』(id:bunsyo:20080306)において、今の日本の所得税は「働くのが嫌になるシステムになってる」というような文脈でこんなことを言っているんです。

佐藤 働くのが嫌になる税金のシステムというのは、すごくつまらないですよね。一生懸命、やればやっただけとられてしまう。(中略)今の日本の税制に注文をすると、勤労意欲を失わせるような税のシステムだけはやめてほしいんです。共同体の中で、一人ひとりが思いきり働けるような税金システム、それがやっぱり皆が幸せになれる一つの経済学の答えじゃないかなと思うんですね。(p.83)

税と刑では違う気もするが、発想的にはこういう発想で、どうにかよりよい社会を形成していけないだろうか。

*1:ただし、公判直前に母親に宛てた手紙では「死刑が怖い」と記述していたとする報道もあった