日ノ出町はちょっと珍しい


京浜急行に、日ノ出町という駅がある。
かつて横浜を代表する繁華街であった伊勢佐木町があり(今も横浜でその手のお店といったらここですけど)、桜木町や関内と隣接しているという華やかでそしてダークな側面も持つ独特な地区である。


日ノ出町の何がすごいって、いる人がすごい。
ギャンブル好きな気性の荒いおっさんは大量発生してるわ(場外馬券場があるため)、派手な姉ちゃんは歩いてるわ、そうかと思えば怖いお兄さんがうろうろしてるわ。
いや、ここまでは新宿とか渋谷とかでも当てはまると思うんですが、すごいのは、幼稚園児や小学生もうじゃうじゃいるってことです。
野毛山動物園という、入場料無料の動物園があるからなんですがね。


おっさんと姉ちゃんとお兄さんとちびっこがいっしょにいる光景というのは、ちょっと珍しいんじゃないかと思いますね。
それこそがこの街のいいところであり、一方で十分な距離を取るべきものと距離を取っていないとか、いろいろあって特徴のない街とかっていうことでネックにもなってるんでしょうけど。

戦争を知らない人だけの国はどうなる


現在の日本では、戦争を知ってる人ってのは減少していってる。減少してるとはいっても、戦争体験を聞こうと思ったらそう苦労せずに体験者を探し出すことはできる。


でもいつかいなくなる日がくるんだよな。この国から、戦争を知ってる人がいなくなる瞬間が、100%ではないけど、ある程度の確率で、そういう日がやってくる。1945年以前に生まれた人がこの国からいなくなる。順調にいけば50年後ぐらいだろうか。


いつかくるかもしれない「その日」は、メディアで報道されるだろうか。「メディア」も「報道」もあるかどうかわからないけど、要するに、戦争を知っている最後の日本人は、日本中の注目を浴びて死んでいくのだろうか。誰も興味を示さない、そんな世の中になっていないだろうか。


戦争を知ってる人なんていくらでもいると思ってたが、いつかいなくなる日がくる。それに気がついたときに、ハッとすると同時に、言いようのない恐怖に襲われた。戦争を知らない人だけで構成される国は、きちんとブレーキをかけることができるのだろうか。暴走を防ぐことができるのだろうか。


いずれにしても、戦争を知らない人だけになる日が来なくてはいけない。ブレーキだなんだという話は、それからだ。そういう話ができる日が来ることを願う。

ドキッとする女性のしぐさ vol.2

「bunsyo君、ひとかわ剥けたんじゃない?」


うわー、エロイなーー先輩ーーーーーー!!
まぁ、ひとつ上のオトコにね、なりましたよ!!



・・・などというこの世のものとは思えない、超絶的にバカなことを考えてしまうのは僕だけなんでしょうか・・・。

「コロシアム」の立体感


コロシアムという単語がある。


闘技場とか、そんなような意味である。
ところがですね、日本語の感覚的には、語意以上にもっと強烈なイメージのある単語だと思うんですね。
実はもっと奥行きがあって、立体的な単語だということです。
要するに「殺しアム」ないし「殺し合い」あたりを想起させるのです。
これにうまく目をつけてネーミングしている例があります。


ポケモンコロシアム」というゲームがありますが、これだって意味としては「ポケモンが闘う場所」ってことですが、子どもが連想するのは殴ったり蹴られたり時には殺されたりっていう、確実に殺伐とした光景だと思うのです。「ポケモン殺し合い」だと確実にPTAやらなんやらから苦情がきそうですが、「ポケモンコロシアム」ならセーフ、かつ激しくてエキサイティングな戦闘のイメージも持たせることができる。この辺のさりげないネーミングセンスは光ってると思います。


ビューティー・コロシアム」という番組もあります。これは闘技場風のスタジオセットで女性(男性の場合もあるのかもしれませんが)の外見を変えてしまおうという趣旨の番組です。ここでも、コロシアムという単語の持つ「命がけ」というような日本語のニュアンスが利いているように思えます。「死闘」といえばいいのでしょうか。真剣勝負なんだということが暗示されているように感じられます。やはりこのネーミングも、人間の無意識に絶妙にはたらきかけている気がします。




「コロシアムという単語には語意以上の立体感がある」なんてことは、まず学校じゃ習いません。
日常生活でも、そんなことを意識している人もまずいないと思います。
ネーミングに困ったときに、この単語を論理的に導き出すことはおそらく非常に困難です。
無意識のうちに「なんとなく」積み重ねられた言語感覚を研ぎ澄ませておかないと、こういう発想・ひらめきは出てこないでしょう。
磨いておきたいものです。

死ぬよりもつらいことがあるのだとしたら


畠山鈴香被告に無期懲役の判決が出た。
求刑は死刑だった。
妥当だという人も、そうでないという人もいる。


報道によれば、本人は死刑を望んでいたという*1
これ以上生きているのがつらいのだという。


刑というのは何のためにあるのだろう。


懲らしめるためだとすれば、本人が嫌がることをしなくてはいけない。
社会的な犯罪抑止力を期待するのだとすれば、世間の人々が嫌がることをしなくてはいけない。
今回の場合はこれが一致していない。


いうまでもなく、今回の事件は残酷で悲惨である。被害者と遺族の悲しみは深く、決して消えることはない。
もしも彼女に責任を負う力があるのなら、彼ら彼女らが苦しんだ以上のつらい刑に服さなければならないだろう。
だが、彼女にとって死ぬよりもつらいことがあるのだとすれば、そういう選択肢もありえることになる。
今回の判決は、犯行の計画性を認めず、死刑にするのはためらいがあるとした。つまり、死刑よりも重くない刑として、死刑よりつらくない刑として無期懲役が選択された。
彼女が本心でどう思っているか推し量ることはできないが、仮に死刑を望んでいたとすると、「裁判官としては軽くしたつもりでも、被告にとっては重い」場合というのはあるのかもしれない。




今回僕が思ったのは、裁判のテクニックとして、「死刑にしてくれ」って言っちゃう方法もあるんだなということだった(不謹慎ではあるけれど)。
自分がそういう立場になることはないはずだが、もしも極刑が免れない凶悪犯罪を起こした場合(あるいは弁護士に転身してそういう被告を弁護した場合)、あえて死刑を望むことで死刑を回避できることもあるんじゃないかと思ったのだ。
僕が考えつくぐらいだから、裁判の世界では当たり前のことなのかもしれないが。



それと、死刑のあり方とかを考えることもひとつ重要なことだけど、並行して、絵空事かもしれないけど、そもそも犯罪の起こらない社会づくりというのも構想しなくてはならないのかもしれない。
現在の死刑という制度に犯罪抑止効果を期待しているのかもしれないけど、とんでもない罪を犯してしまう人というのはそんなことをまともに考えられているのか疑問なわけだし。
そのためには、「まともに生きるのがバカらしくなる社会」ではなく、「みんながまともに生きたくなるような社会」を形成しなくては。




ちょっと話がずれますが、佐藤雅彦という人が『経済ってそういうことだったのか会議』(id:bunsyo:20080306)において、今の日本の所得税は「働くのが嫌になるシステムになってる」というような文脈でこんなことを言っているんです。

佐藤 働くのが嫌になる税金のシステムというのは、すごくつまらないですよね。一生懸命、やればやっただけとられてしまう。(中略)今の日本の税制に注文をすると、勤労意欲を失わせるような税のシステムだけはやめてほしいんです。共同体の中で、一人ひとりが思いきり働けるような税金システム、それがやっぱり皆が幸せになれる一つの経済学の答えじゃないかなと思うんですね。(p.83)

税と刑では違う気もするが、発想的にはこういう発想で、どうにかよりよい社会を形成していけないだろうか。

*1:ただし、公判直前に母親に宛てた手紙では「死刑が怖い」と記述していたとする報道もあった

ドキッとする女性のしぐさ vol.1


いくつかのお店が入ってるスーパー(ダイエーとかイトーヨーカ堂とか)の専門店の女性。
そういう女性が、休憩中などにその店の制服着たまま100均とかで買い物をしてるのを見たとき、ドキッとします。


なんでだろうな、ふだんは「店員さん」なのに、そういう人が「お客さん」になっているという「非日常性」でしょうか。
はたまた、100均のなかにちょっと洗練された制服が紛れ込んでしまっている「非日常性」でしょうか。
けっこういい値段する服を扱ってる人が、限りなく庶民的なお店で買い物をしてるという「非日常性」でしょうか。



あ、非日常性ですね。
ギャップともいう。

今のところまわりの人間はあまり同意してくれない・・・。

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